ゆりのわか

超意訳!和歌考察!

#004 忍ぶ恋の話。

夏の夜の空気が好きです。

夜だけれど、なんだか外に出たくなるようなあの感じ。

暑さが少しだけ引いて、窓の隙間から吹く風が心地よい。

そんな感じが良いです。

 

今日の和歌は、夏の歌です。

一言で言えば、静と動が同時に込められている、そんな歌です。

 

夏の野の、茂みに咲ける、姫百合の、知らえぬ恋は、苦しきものぞ

 

夏の野原、

闇夜の中で草が青々と生い茂っています。

その緑をかきわけたところに、小さな姫百合がちんまりとそっと咲いている。

その秘めた可憐さがかわいらしい、と思っていました。

ユリの花の清純さ・ちいささと夏の野原のにぎやかさが対比になっている。

 

でも調べてみると、どうもちょっとそれは足りないみたい。

百合という花は、

立派なお花のイメージや清純さのイメージが強いですが、とても背の高い植物。

ぐんぐん成長します。

 

夏の夜の野原、百合も他の植物同様にぐんぐんと伸びます。

でも、どんなに頑張って成長した所で、他の植物にまぎれてしまって、

草を分け入らなければ、外から百合の存在を認知することは難しい。

 

一生懸命想いを馳せてみても、

周りに隔てられて、それを知られることはない。

それなのに想いを募らせてしまうことの虚しさ・恋が叶わない悲しさ。

 

歌った歌人は、大伴坂上郎女万葉集の時代の人です。

 

ぐんぐんと伸びる夏の草の動。

周りに囲まれてしまった・阻まれてしまった百合の静。

 

そんな姿が浮かびます。

 

どんな恋をしていたのでしょうか。

身分違いの恋だったのでしょうか。

ひっそりとした百合も、心の中では熱い恋慕にかられていたのでしょう。

 

「そんな百合のような恋は、苦しいものね」と歌った人が悲しそうにふっと笑っている、そんな姿が浮かびます。

彼女もきっとそんな恋をしたのでしょう。

「苦しきものぞ」に込められた重い呼吸の間さえも感じられます。

しぼりだしたような。

 

そうでなければ、この歌はとても他人事な歌になる。

あるいは、そんな恋をしている、誰かへの嫌味のような歌です

あえて、そんな歌を歌わければいけない場面なんてあるでしょうか。

私はそう信じたいです。

 

現代に置き換えれば、

好きになった相手はとても人気者で、手の届くような人ではない。

そして、その人には恋人がいる。

何よりも、相手は自分のことをきっとただの友人としか思っていない。

どれだけ想いを募らせて、勇気をこめた行動をしても、

さりげない行動に込められたその好意に、あなたは気づかないだろう。

にぎわう周囲の中で、そっと自分の胸の中にある好意を抱きしめて震えている、

あるいは、静かなバーのカウンターで1人ぽつんと、

「苦しいなぁ」と悲しそうに笑っている。

そんな人の姿が浮かびます。

 

身分の差別を含めて、あらゆるしがらみがなくなりつつある現代では、

こんな恋は

「じゃあ、好きって言えばいいじゃん」で終わってしまうかもしれない。

「もっとほかにいい人いるって」で、

本人さえいつかその恋を忘れてしまうかもしれない。

 

だけど、少なくともこの時代は、そうではなかったと思うのです。

元々交わせる言葉の数が少なく、

コミュニケーションが限定的であったからこそ、

余計に相手との結びつきが強かった。

身分が絶対的だったからこそ、宿命というものの前に立ち尽くすしかなかった。

 

伊勢物語の業平のように、

女を連れて駆け落ちできたらどんなによかったのでしょう。

(それも結局途中で女を連れ戻されてしまう訳だけど。)

 

だからこそ、恋がかなわないことの絶望がひとしおだった。

そんな感じでしょうか。

 

この歌は、そんな恋の切なさと一途さが現れている歌です。

どうかこれを歌った彼女にも、

この後の人生で良い人が現れたり、

良いことが沢山起きていてほしい、

千年以上時を超えて、そう願わずにはいられないな。

 

追記 

この鑑賞をしているときに、

なんか対照的な和歌があったはずなんだよなぁと思って思い出したのが、

「しのぶれど色にいでにけりわが恋は ものや思うと人の問ふまで」

百人一首にも入っている、平兼盛の歌です。

郎女のように「一生懸命想いを馳せても周囲に隠れて知られない恋」もあれば、

兼盛の歌のように「気づかれないように、隠してたのに?」というのもあり。

現代でもありますよね。

「えっ、そうだったの?」というポーカーフェイスな人もいれば、

「いや、顔と態度に出てるよ!」というわかりやすい人もいる。

 

ちなみにこれは歌合せ(どっちの歌が優れているかを競うゲーム)で

「忍ぶ恋」をお題に詠んだときの歌だそう。

対戦相手は壬生忠見

彼はこう詠んだそう。

「恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか」

私が恋をしているという噂がもう立ってしまった、こっそり想いはじめたばかりなのに

 

これは兼盛が勝つわな、って思います。

だって、壬生忠見の歌はお題に対してストレートすぎます。

鑑賞の余地がないというか・・・。

まぁ、そうなんだけどね。そうなんだけどさ!

もっと掛詞とかさ・・・擬人法とかさ・・・使ってよ・・・!

忍ぶ恋のつらさとか悲しさ、相手への愛しさ、、、そういうものを歌ってよ!

人知れず「こそ」とか、そこ強調しなくていいから・・・と言いたくなります。

 

人知れず忍ぶような恋をしたことがなかったのではないかと思わずにはいられません。

忍ぶ恋をしている人に寄り添えてなさすぎです。

 

それに対して、

しのぶれど 色にいでにけり わが恋は ものや思うと 人の問ふまで。

同じ「人には隠してたつもりなのにばれてた!」というシチュエーションですが、

色を使っていることで、シーンがよりイメージしやすくなります。

心の中でこっそり想いを募らせていたのにその想いが強すぎて、色やオーラとして出てしまったのでしょう。

実際、人に誰かへの好意がバレるときってそうですよね。

なんだかうれしそうだったり、ちょっと物憂げだったり。浮足だってたり。

もちろん当の本人はそんなにあからさまだということに、

往々にして気づいていません。

それでも周りは

あくまでそれが態度に出ているわけだから

「あ~なんかあの人、恋してるんだな」と、わかるわけなんですけれど、

それを「色」とするのがまた、なんというか感性が素晴らしい。

 

それに、似たような歌ですけど、歌の主体が違うなぁと思いました。

忠見の歌は

「こっそり想ってただけなのに、もう噂でみんなに知られちゃったよ!」

という感じですが、兼盛の歌は

「忍んでいたけれど人が「どうしたの?」と聞いちゃうほど、私の恋する気持ちは色となって表れてしまったようだ」

という感じです。

忠見の歌は、「自分の噂」が主体です。

でも、兼盛の歌の主体は「わが恋」なんです。

もう私の噂広まってんじゃん~!と詠むのか

人に気づかれるくらい、色として表れてしまったみたい。自分のあの人への想いが強すぎるのね。

と詠むのか。

人知れずの恋を嘆くときに、

自分の噂が有名になったことを嘆くのか、

それとも自分でも気づかないくらいあの人のことを強く思ってしまっていたなんて....と

嘆くのか。

もちろん、予期せず人に知られるのは恥ずかしいことです。

だけど、本当に全力の恋をしている人だったら

「あーもうみんなに知られた最悪」よりも

「ああ、そんなに私はあの人のことを強く想ってしまっていたなんてね・・・」のほうが適切なのではないのかなぁと思います。

 

そんな忠見ですが、彼の歌には彼の歌で好きな歌があって

それは

 

「暮ごとにおなじ道にもまどふかな身のうちにのみ恋のもえつつ」

という歌だったりします。

 

夕暮になるたび、あの人のことを考えてしまう。

私の心の中でだけ、恋の火が燃えつづけて。

 

これは歌い手の性別によって意味が違うはずです。

女性だったら、今夜は逢いに来てくれるのだろうか?と自分だけ期待ばかりしてしまう意味だと思うし、男性だったら夕焼けについての二人のエピソードでもあったのでしょうか。

 

けど、たぶんここは女性な気がします。

だって、この時代の女性は「待つ」ことしかできないわけですから。

男が他の女のところに通って、自分のところに来なくなったとて、それが永遠にもう二度とこないということなのか、また時間が経てば来るのか、どっちかなんてわからない。

だからこそ、夕暮れのたびに期待してしまう。そう考えるほうがナチュラルな気がします。

 

忍ぶ恋への想像力はなかったものの、

もしかしたら誰かを待たせた恋や、

一方的に通わなくなった恋のひとつやふたつがあったのかもしれません。

 

歌の名人とは言われていますが、

元々技巧的に凝った、解釈の「あそび」がある、

そんな和歌を作るタイプという訳でもないように思いますし、

決して彼の作る歌の語感が良いとは思いません。

 

でも、夕暮れを見てそわそわとする、一途な女性の恋をこうして描くならば、

ストレートな表現も素敵だな、と思います。

この歌の彼女のそわそわが実って、また好きな人が彼女に逢いに来てくれていたらいいのにな、そう思います。