ゆりのわか

超意訳!和歌考察!

#005 和歌イズマーケティング

今日ちょっとした考える機会があって、
「あぁ、和歌ってマーケティングだなぁ」と思ったんです。
和歌ってたぶん、万葉集の時代とかは、
相手に送る手紙とか純粋なメッセージとしての機能を持っていたけれど、
平安中期以降・国風文化が栄えていくにつれて、
それが次第に芸術としての機能を高めていったんだろうな、と思うのです。
 
そうなったときに、
「いかに人にウケる和歌(コンテンツ)」を作るかっていうことが
一大的な命題になるわけですね。
炎上なんて視点はその頃はないから、正攻法一択。
和歌ってまさにコンテンツマーケティング
 
歌合せのときなんかはもろそうですよね。
お題に沿って、皆が「わかる」ってなるように詠む。
どれだけその状況の心理に寄り添えるか、だと思うです。
だからこそ、寄り添えていない和歌や、
文字合わせの和歌はすぐわかるし、薄っぺらさが際立つんです。
 
その心理を掘り下げる過程こそがマーケティングなのだと思う。
その歌合せのメンツは誰か、
お題は何か、それって今の時代でどんなシチュエーションなのか、
立てるべきか相手は誰か、
季節は何か、相手はどんな作風の人か。
普通はみんなどう考えるか、どうすれば意表をつけるか。
どうしたらそのテーマでみんなが「いみじ・・・」ってなるか。
 
そこまで考えられてこそ、人の心に響く和歌ができると思うんです。
前回、壬生忠見の和歌を紹介したときに、
壬生忠見の歌はつまらないという話をしたんですが、
対照的にうまいのってだれかなぁって思って。
 
個人的には業平だなぁと。
 
でも、彼って突然その歌を詠んだんだろうか?って思ったわけです。
ふっと頭に降ってくるほど、回転が速かったのかもしれません。
実際かきつばたの歌も伊勢物語の話が全て史実ならば即興でしょう
もちろん、彼くらい身分があって教育を受けてきた人物であれば
即興でだって余裕で詠めたでしょう。
 
だけど、それだけで人を感動させることはできない。
彼は、才能があっただけでなく、
とても心が豊かで共感性の高い人間でかつ、
人を不意打ちで驚かせたいと思うような大胆な人だったのだと思います。
 
皆と同じ口説き方じゃつまらない。
もっとクリエイティブに。
でも、皆が感じていることを。
そしてなにより、皆が思いもしない表現で、意表を、つく。
そんな感じなのかなって。
 
業平の歌で一番好きな歌は、
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし 」
桜がなかったら、春の人々の心はどんなに穏やかだったのだろう。
 
業平の時代から
千年以上経った今も私たちは、
桜の季節が近づくと「もう咲いたかしら」と開花時期を気にし、
桜が咲くとこぞってお花見に出かけ、
そして風や雨が強ければ、「まだ散らないでほしい」と天気予報にやきもきします。
 
それはきっと昔の人も同じだったのでしょう。
でも、桜の美しさを愛でる和歌なんて、世の中にはありふれています。
大好きなあなたと美しい桜を見たい・あなたは桜のように美しい。
そんな発想なんてつまらないと業平は思っていたのでしょうか。
 
だから、
桜なんてなければ、
人の心はもっと平和だったのにね、なんて言っちゃう訳です。
王道のように、桜を褒めたらありきたり。
だったら、もういっそ全否定してしまって、
それくらい私たちの心を狂わせ惑わせる魅力あるものとして昇華させる。
こんな大胆な発想、誰が思いつくでしょうか。
 
業平はおそらく、
こうした分析が出来る人だったのではないか、と思います。
だからこそ、突飛だけど、
皆が「そうね、ほんとに」と共感する和歌の数々を生み出せた。
 
私はちなみに
「ちはやぶる神代もきかず竜田川 唐紅に染めくくるとは」も好きです。
3年くらい前のコナンの映画のモチーフにも使われていましたよね
倉木麻衣主題歌やってたやつ。
 
この歌だって、
「神様だって聞いたことがないでしょう。
竜田川が紅葉のきれいな赤色でこんな鮮やかに染まったなんて」
と、ダイナミックな表現をしているわけです。
 
全知全能の神でさえ知らないくらい、珍しい。
そしてこの上なく、美しいわけです。
 
古今集曰く、
この歌は天皇に呼ばれ、宮中の紅葉の屏風を前にして謳ったわけですけれども。
ちなみに伊勢物語では現地に行って詠んだことになってます。
 
私はここは、天皇の前で歌った説で解釈するほうが面白いと思っています。
もちろん、現地で見て、あまりの綺麗さに歌ったったっていいと思うんですよ。
 
だけど、天皇の所有物である屏風を前に
「この屏風を見て和歌をよめ」と言われたら。
「わーもみじきれいー!」とか、「すきなひとともみじみたかったー!」
レベルでは浅はかなんです。超ナンセンス。
天皇だって「はぁそうですか」って思ったと思います。
 
天皇の屏風だからこそ、究極的に褒める必要があったから、こう詠んだ。
いわばご自慢の屏風なんです。
こんな和歌詠まれたら天皇もニッコニッコだったことと思います。
自分の所有欲も満たされますよね。
「神様さえこんなにきれいな景色は見たことない、それほどきれいな景色」
と謳われた屏風を見るたびに、
うふふ、ふへへへって気持ちになるでしょう。
 
たとえるなら、身近な人に褒められた服は着るだけでうれしくなりませんか?
誰かにプレゼントして貰ったペンは、使うだけで元気が出ませんか?
 
天皇もそんな気持ちだったんじゃないかな、と私は思います。
だとしたら、気を利かせた表現が出来る業平もすごいし、
もしこの私の仮説が正しいなら、
そんな屏風を天皇がにこにこ嬉しそうに眺めていたら、
なんだかいいなぁ、なんて思います。