きらきら光る、雨のしずく。
雨の降った後の晴れ間が好きです。
雨の湿気た匂いと、日差しのぬるい暖かさが、心地よいです。
私は雨が止んだ後、ベランダに出るのが好きなんですけれど、
ベランダから庭を見下ろしたときに、庭のコブシの枝に雨のしずくがきらきらと
くっついていて、光の角度で、赤やら青やら緑やらに瞬くその光を
とても美しく思ったんです。
と、そのときに思い出した歌があり、今日はそれを紹介します。
あさみどり 糸よりかけて 白露を 玉にも貫ける 春の柳か
浅緑色の糸を織って、その糸に真珠のような露の粒を通している。
なんて綺麗な柳なのだろう。
ちなみに出典は古今和歌集で、詠み人は遍照。
春の景物といえば、桜や梅ですが、この時代の人たちにとっては柳もそう。
それこそ、素性法師の「見渡せば、柳さくらをこきまぜて、都は春の錦なりけり」なんて歌があるように、春の都を代表するものだったのです。
そんな柳の葉に、きらきらと露が輝いている風景なのです。
人生で初めて、露を白玉だと見立てた表現に出会ったのは伊勢物語でした。
当時私は中学生で、中学校の古文の授業で、
伊勢物語の芥川の段を勉強していたんですよね。
芥川と言えば、業平が藤原高子(後の天皇の母)と駆け落ちをした段。
都から、大阪の高槻のあたり、芥川のほとりまで女を背負って逃げるのですが、
結局現実は追手から逃げることができなかった、そんなお話です。
白玉か 何ぞと人の 問ひしとき 露と答へて 消えなましものを
この和歌は業平が女を奪われて失意の中、読んだ歌です。
作中で、女は逃げているときに雨の露を見て「あれはなあに?真珠?」なんて聞いちゃう訳です。世間知らずのお姫様ですから、仕方ない。
そのときに、「ああ、あれは雨の露だよ」と言って、自分も露が消えてしまうように消えてしまえばよかったのに。そんな絶望を歌った歌です。
「消えなましを」という表現が良いです。
現実は「消えてしまえばよかったものを」くらいの訳でしょうが、
「消えてしまえばよかったものを、消えることもできないみじめな自分が」
という現実の自分を責めるようなニュアンスがあるような気がするんですよね。
当時の私は「雨が真珠な訳ないやん」と思っていたのですが、
その翌年だか、翌翌年だかの学校の体育祭で途中から雨がパラパラと降ってきて
前に並んでいたお友達の髪に露がおりたとき、
それが光の反射を受けてダイヤモンドのように
彼女の頭できらきらと輝いているのを見て
「確かに、真珠かもしれない」なんて思ったのでした。
雨を白露にたとえる「見立て」
古文では、様々な表現で「見立て」が使われています。
それは最初は「いやそんなんロマンチストすぎん?」というものもあったりするのですが、和歌を詠んでからその風景に出会うと自然とそう見えてくるのが不思議です。
彼は夜空の月や星を
- 「天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ」
- なんて歌った訳です。
- 雲は波で、月は船。
- その船は時間をかけて海原を泳ぎ、星の林をかいくぐる。
超ロマンチックですよね。
だけど、結構本質的なことを言っている歌だと思います。
雲は波、月は船、くらいならまだ誰にでも思いつきそうですが、
星々を「林」として集合体として価値化させているところが良いと思います。
この歌を知ってから、空を見ると、月が船だなぁってしみじみとしてしまう。
和歌を知ると、こういう表現の広がりがあるのも、良いことだと思うのです。