ゆりのわか

超意訳!和歌考察!

えっ来週旅行で××にいくんですか?なら、××は行ったほうがいいですし、絶対アレは食べたほうがいいですよ!

最近、奥の細道を読んでいます。

といっても、がっつりではなく、小学館の日本の古典を読むシリーズを

図書館で借りて読んでいるので、あっさり目ではあるのですが・・・!

 

私は、万葉集古今集新古今集、あたりまでの和歌が好きです。

だから、俳諧や近代短歌にはあまり惹かれなくて。

なぜだろうなぁと思ったときに、情景描写の違いだな、と。

どちらも読み手の気持ちを伝えるメディアではもちろんあるんです。

でも、俳諧や近代短歌って、絵画的なんですよね。

ある風景を描写して、その余白を想像させることで、読み手の気持ちや立場を想像させるというか。

対照的に、和歌は主観的なんです。変わらないでほしいなぁという想いがこもってる。

古典文法で、「まほし」とか「なむ」とか、よく使われるのはそういうことなのです。

だから、歌い手の熱量や想いの強さを直接的に感じられるから、息遣いを感じられるから、和歌が好きなんだと思うのです。

けど、たまには。美術館で絵を眺めるように、俳諧を愉しむのも悪くないかなと思い。

読んでみたら、案の定、結構面白いですね・・・笑

高校の授業ぶりくらいに読みましたが、「ああこれも芭蕉だっけか、蕪村だっけか」という歌がいくつかありました。古池や~とか、兵どもの~とか、最上川とか。菜の花などなど・・・。

 

その中で、今回初めて読んで「あ~」って思った俳句があります。

それは、

「梅若菜、まりこの宿の、とろろ汁」という句。

前提として、芭蕉は弟子の蕪村と共に江戸→岩手まで北上してから、山形から日本海を大津まで南下し、果ては美濃(岐阜)でこの旅は終わります。俳句の名人の芭蕉は当時でも有名人だったので、各地に知り合いや弟子がいて彼らとの再会や別れが旅のイベントでもあったりします。

この歌は、旅の終わり、大津で芭蕉が入れ違いで江戸へ旅に出る弟子にプレゼントした歌です。

にしても「うめわかな、まりこのやどの、とろろ汁」よくわかんないですよね。

ちなみに私はわからなかったです。笑 まりこってなんやねん、と。

結論から言うと、

この歌は、この弟子がこれから旅で見るであろう、美しい形式や、出会うであろう旅先でのおいしいものを歌い、旅を楽しんでほしい、という想いがこもった歌なのです。

季節は春。道中には綺麗な梅の花が咲いていることでしょう。萌ゆる木々の美しい緑にも包まれるでしょう。

まりこの宿は、東海道の宿で、漢字だと鞠子と書きます。

この鞠子の宿は、とろろが有名で、東海道中膝栗毛の中でもそれにまつわるエピソードが出てくるらしいです。とろろを鰹出汁と卵とお味噌で割ったものらしいですね。

二日酔いの日とかに食べたいかも。笑

要はそれだけ有名でおいしいものがあるよ!食べるのが楽しみだね!みたいなことが言いたかったのではないかな、と。

 

現代社会の私たちも、お友達や仕事場の方とのお話の中でこういう場面って

経験したことがあると思うんです。

 

例えば、友達が、ふだんのおしゃべりの中で

「私、来週実は、人生で初めて京都に行くんだよね」って言ってきたとして。

私が京都に行ったことがあるとしたら。

「えっそうなの!今の季節だったら、北野天満宮で梅を見てほしい!めちゃくちゃ綺麗で、趣があるから!あとはね、途中で××っていう料理屋さんがあって、そこのおうどんめちゃくちゃうまいんだよ!・・・」とか、とても語っちゃうと思うんですよね。

 

旅の良いところをおすすめで教えてあげたいという気持ちと、自分の良かったことをシェアして知ることでその人の旅がもっと良い旅になったらいいなという祈りと。

そんな気持ちが、江戸時代のこの俳句にも詰まっているなぁ、と思って。

いいなぁ、と思ったんです。

バスも電車もないこの時代、平安時代に比べたら、馬だの籠だので移動するのが比較的メジャーにはなったとはいえ、お金がかかるのでやっぱり歩ける限り歩くのが庶民スタイル。雨に野ざらしになることもあるでしょう。宿が見つからないこともあるでしょう。現代と違って、道中大変な旅行だったと思うのです。

それでも、こんな楽しみがあるよ!という俳句が胸にあれば。

辛い雨の中でも、寒い雪の中でも、ぽっとちいさなあかりが、胸に灯ったのではないかな、と私はおもいます。